*Rada History 1* ゴボウを食べ過ぎた
- aromacate
- 2015年4月1日
- 読了時間: 3分

「おなかの中にいるとき、お母さん、いっぱいゴボウ食べんでしょ」
「白いお母さんから、どうしてこんな黒い子が出てきたんだろうねぇ・・・」
小さい頃、私は、色が黒いことで、「私たちと違う」と、いつもイジメを受けていました。
肌が白く、美人で華奢な母に反して、生まれてきた子はなぜか地黒。
本当に嫌で嫌でたまらなく、
「どうして私だけ?」「私には責任はない」と、ひどいコンプレックスを持っていました。
「本当はうちの子じゃないんじゃないか」と真剣に思い、笑、
よく母に、「私は本当の子じゃないんでしょ!!!」と言って困らせていたそうです。
黒くて、ぽっちゃりした私(まるで黒豚!)・・・
母は、どうにかして私を女の子らしく育てたいと思ったのでしょう、
私を、バレエ教室や日本舞踊の教室に通わせてくれました。
バレエは長続きしなかったのですが、祖母が先生をやっていることもあってなのか、
日本舞踊の世界にはどっぷりつかることになりました。
「かわいい、って言ってもらいたい」
「どうにかして、まわりに認めてもらいたい・・・」
そんな想いをいつも思っていました。
だからこそ、たぶん、めちゃくちゃ頑張れたのだと思います。
4歳から始めた踊りを。
発表会では、おしろいで顔や手、首筋を真っ白に染めます。
おしろいは、冷たい水を使ってつけるので、冬場のお化粧は、本当にしんどいのですが、
それでも、白くなれるひと時が楽しみで、全く苦ではありませんでした。
さらに、日本舞踊は、身体が細いよりも、しっかりとした足腰が好まれます。
私のずんぐりムックな体形は、着つけ師にも喜ばれました。
子どもから日本舞踊をやっている子はその当時、あまりいなかったこともあってか、
「かわいいねぇ」「上手だねぇ」とお客さんに褒めてもらいました。
そして、誰よりも言ってほしい家族、母や父、祖父母、叔父や叔母に、
「かわいい」と褒めてもらいました。
発表会で踊っている瞬間―。
それは、私が私でない、唯一の時間であり、唯一、自己肯定が出来る時間だったのです。
そういう瞬間をくれる、踊りに、私は心から感謝しました。
卒園アルバムに、「踊りの先生になりたい―」
と書いたのを今までハッキリ覚えています。
(続く(2へ))
※
Rada historyでは、ちょっとづつ、Radaの半生を書き綴っていきたいと思っています。
ちょっと出だしは暗めですが(笑)、踊りをはじめとして、さまざまな出会いを通じて、今の私がいる、
みたいなことを書いていけたらなーと思っています。
ちなみに、地黒は、今ではチャームポイントのひとつとして気に入っています♪
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